人生

戦争体験者の祖父が亡くなってから知った真実『トラック島での人体実験』

戦争体験者の祖父

これは、時代を超えて知ることになった悲しい真実を綴っています。

私の母方の祖父は、5年前に90歳で亡くなりました。

この亡くなりかたも実に悲しい。

亡くなる1年半前に腸閉塞から容体が悪化し、家族である母が医師から「手術をすれば助かるかもしれないが開腹してみないとことにはわからない、このままでは確実に亡くなるが手術をしますか?」との選択を迫られた。

母は、助かる可能性があるならと、手術を希望しました。

祖父は、腸閉塞から小腸と大腸がほとんど壊死している状態で、小腸・大腸のほとんどを摘出することになったのです。

術後は、食べても吸収する臓器がない状態となりました。

栄養については、中心静脈栄養で心臓近くの静脈に専用のポートを作り、24時間点滴により栄養を送るため亡くなるまで点滴を外せない状態となりました。

排泄は、残っているわずかな小腸から体外へ排泄させるよう人工肛門を作り、ストマーを使う状態となりました。

祖父はそれまで、健康で年相応のボケもなくしっかりしている人でした。

それゆえなのか、母は父親がその姿で生きていることに耐えられなかった。

「そんな姿になってまで・・・」「あの時、死なせてあげれば良かった」

「おじいさん(父親)は死に損ないだ」

母のこの思いは、祖父が亡くなるまで変わることはなく、最終的にはこの思いに耐えられなくなり、祖父を見舞いに行くことも「辛くて出来ない」からと、私へ病院にいる祖父の見舞いなどを頼んできました。

 

私は、祖父が入院してからは、母の気持ちも分かるが助かった命である。私なら生きたいと思った。どんな姿であれ、家に二度と帰れない状況であれ、何とか希望を見つけ生きたいだろうと思った。だから祖父に少しでも希望を持ってほしかった。

話のネタにという想いや、季節を感じるもの、祖父の庭に咲いていた花をお見舞いの時に持って行ったりもしました。

これらの植物は、私の庭にはなかったし、人から分けてもらう時間もなく初めて花泥棒もしました。

保育園時並みの工作も初めてしたし、手紙を初めての切り絵で飾ったりもしました。

そんな私に母は「あんたおかしいんじゃないの?おじいさんはそんなことで喜ばないよ」と平然と言ってくるので傷ついたとしか言いようがありませんが。

そんな感じでお見舞いに行けれない時には、手紙類を送った。そしてお見舞いに行く際は、少し疎遠になっていた孫と祖父ですから、共通の会話がないので、話のネタをかなり豊富に用意してから元気に病室を訪ねていました。

しかし、祖父は

何の会話を振っても、戦争の話になってしまうのです。

これは入院してから変わった訳ではありません。

元々、戦争の話が好きな人だったのです。戦争で行ったトラック島での話は子供の頃から、ずっと聴き続けている祖父の好きな話でした。

私だけではなく、母にもその他の近い身内へも戦争の話が必ず出ます。

昔のお年寄りは、面白おかしく話をしてくれることを知っている人もいるのではないでしょうか。

祖父もそんな昔の年寄りとして話を面白おかしくして話してくれるので、それが戦争という悲惨な体験の話であっても、面白おかしく話す内容は戦争を知らない世代にすると、楽しい話になって聞いていました。

話の内容に、戦争の悲惨さなど微塵も感じませんでした。

そんな祖父の戦争の話は、私が小学校の頃からずっと聞いてきたのです。

 

祖父が好きな戦争の話、ただそれだけの認識でずっと過ぎてしまっていたのですが、祖父が亡くなくなって5年も経ってから、それが何を意味していたのか、そして何があったのかを知ることになってしまったのです。

この私の想いは、悲しすぎる現実であり、祖父に「おじいちゃん、ようやく分かったよ」そう伝えてあげたくても、もう祖父はいないのです。

戦争体験から、祖父はとんでもない苦しみを背負って生きていたのです。

 

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祖父の悲しい真実

祖父は亡くなるまで、戦争で行った「トラック島」の話をしていました。

トラック島は、グアム島から南西へ約1000キロ沖に浮かぶ島です。

 

亡くなる少し前からは、食事を摂らなくなり、ぐったりと動こうとしない中で「トラック島」で過ごした日々を回想をしていた。

ゆっくりと回想する祖父が

「トラック島で見た月は綺麗だったなあ・・・」

そう回想する時、私は祖父と同じ月が見えたような気がしました。

その日は波も穏やかで、珍しく辺りも穏やかな静けさだったのではないだろうか、そんな中で祖父は、ふと見上げた時に見た月を思い出しているのではないだろうか、私はそんな風に感じました。

それから、二日後に祖父は亡くなりました。

 

それから5年が経ちます。

現在、私は複雑性PTSDと診断され治療中なのです。

「心的外傷ストレス症候群」というものです。心的外傷が原因でトラウマとなり、様々な困難を生じさせるのです。

私が「PTSD」を発症したことで、祖父のことに気がついたのです。

心的外傷のトラウマ記憶は、色あせることなく鮮明にいつまでもいつまでも私のすぐ隣にあって、私を苦しめ続ける。

しかし、本当の苦しみ、恐怖は言葉にならないのです。言葉にすれば、そんなこともあったのよ、明るくおちゃらけて話すだけになってしまう。

自分がいわゆるPTSDを背負った時に、祖父が色褪せることなく戦争体験を亡くなるまで持ち続けてしまったことが、トラウマ体験だったのだと気がついてしまったのです。

知識がないのは悲しいことです。

PTSDの診断基準を見てみれば、わかることであったはず。

現代になり、診断基準が変わり、戦争体験という言葉がなくなっていますが、そもそもは、ベトナム戦争の帰還兵にPTSDの症状を持つ人が多く、疾病としての概念が作られ、診断基準も作られました。

始まりは、戦争体験からだったのです。

 

祖父が亡くなるまで戦争体験を語っていたから、それがトラウマであると安易に結び付けようとしているのではなく、祖父の内面から気がついたこともあります。

祖父は、子供の頃から「怒ると恐ろしい」と言うイメージがある。これは私の兄弟や親族も同様に思ってきました。

しかし、冷静に振り返ってみると、祖父は普段は穏やかな人であり、怒る場面においては「何をやっているんだ」「ダメじゃないか」と言うような一言しか言っていないのです。何故、その一言が「怒ると恐ろしい」と思わせてしまっているかは、その一言へ込められている怒りの強さなのです。

PTSDを患っていると、トラウマからの恐怖、そんな目にあってしまった自分への悲しみや憤り、整理しきれない時代や相手への怒りなども抱えて生きている。しかし、それらを人へ向けることなど許されることでないから、理性によってコントロールして生きているのです。

しかし、何か・・・特に怒りを感じた時にコントロールしているものが出そうになる時がある。それでもコントロールするのだが、一言であってもそこに込められてしまった怒りのパワーの凄まじさを相手を感じ取るから、「怒ると恐ろしい」になってしまうのです。

この内面世界は、私がPTSDになって初めて理解したことです。

ここまでの内容は、憶測でもあれ真実であれ、受け止めれる範囲での内容でしたが、その後に更にとんでもない真実を知ってしまうのです。

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トラック島での事件

祖父から「トラック島」の話を長いこと聞いてきても、現代ではあまり馴染みのない場所だけに、戦争もトラック島も何処か遠くのお話のような感覚はありました。

調べごと続きにまったく違う方向へと流れついたサイトで「トラック島」と言う言葉が出てきました。

ネット上で見つけたのは初めてのことで、気になり更に辿った先で「トラック島の事件」というものに出会ってしまいました。

1月事件

1944年1月下旬、トラック島にある海軍第4艦隊所属の第4病院の軍医官らが、同艦隊所属の第41警備隊の診療所の病棟で、同警備隊に拘禁されていた捕虜8人を譲り受け、8人を4人2組に分けて、止血帯を長時間充てる実験と、ブドウ球菌を注射して敗血症を発症させる「生体実験」を行った。止血帯を長時間充てられた捕虜4人のうち2人は実験中に死亡、ブドウ球菌を注射された捕虜4人は全員が死亡した。止血帯の実験で生き残った2人の捕虜は、診療所の裏の丘へ運ばれ、ダイナマイト爆風をあてる「爆風実験」が行われた。2人は爆風により四肢がもげるなどしたが死亡せず苦しんでいたため、絞殺された。死亡した捕虜の遺体は第4病院に運ばれて解剖され、うち4人の頭部は切断され、頭蓋骨は標本として軍医学校に送られた。

3月の生体実験

1944年3月に、1月事件に関わった第4病院の軍医官が、別の4名の捕虜を生体解剖し殺害したとされる。

6月事件

1944年6月20日頃、同島の第41警備隊の警備隊病室で、同警備隊の軍医官らが、医学的実験としてアメリカ人捕虜1人の胸部、腹部、陰嚢などを切開した後、下士官に殺害を指示した。下士官らは、まだ絶命していなかった捕虜を病室裏に連れて行き、斬首殺害し、遺骸を穴に埋めた。同時に、別のアメリカ人捕虜1人を銃剣刺突によって殺害した。

7月事件

1944年7月20日頃、1月事件と同じ第4病院の軍医官らが、第41警備隊から引き渡された捕虜2人を病院裏の丘へ連れて行き、下士官らに槍や銃剣で刺突させて殺害し、斬首した。

また事件とは別に、この頃残っていた6名ほどの捕虜が、事件と前後して殺害されたとされる。海軍生体解剖事件/wiki

 

事後工作

終戦後、アメリカ軍から生体実験や捕虜殺害の責任を追及されることをおそれた第四艦隊司令部や第4病院、第41警備隊の関係者は、捕虜殺害や生体解剖の事実が露見しないよう捕虜の死体を掘り返して海に捨てるなどして隠し、関係者に口止めをした

 

祖父は終戦まで「トラック島」にいました。

この事件を見聞きしていたのではないでしょうか。

もはや、これは「人体実験」ではなく、アメリカ兵の捕虜への虐待です。

 

トラック島で日本軍の降伏を受け入れたアメリカ海兵隊は、捕虜の所在に関して日本軍将兵への尋問を行ったが、情報を得ることができなかったため、朝鮮系の隊員が同島で使役されていた朝鮮人労務者を通じて捕虜処刑の情報を入手し、戦争犯罪の立件につなげたとされる

 

終戦後に日本兵へ尋問がされたとあります。祖父も聞かれたのでしょう。しかし当時の日本兵が何かを語ることなど有り得ない時代であったことは多くの方が知っていることと思います。

 

祖父は、悲惨なことについては語ることはありませんでした。唯一、話に出てきたことは、同じ日本兵が空腹から畑の物を盗もうとして、見つかった場合などに「見せしめ」として素っ裸にされ、木に縛りつけられて、蚊の餌食にさせたそうです。

現地では、マラリアなのでしょうか、大型の蚊が多く、時間帯に寄っては視界が真っ黒になるほど、蚊がいたそうです。

そんな恐ろしい数の蚊の餌食にされた、痒みと痛みには何日も苦しめられると笑顔で語っていた祖父。悪いことはしてはいけないとか、悪いことをしたのだから仕方がない、と言ったニュアンスは全くなく、それが些細なことから「見せしめ」のようなことが日常的に行われていたことは強く感じました。

 

この祖父の話を証言する内容の記事も見つけてしまいました。

死と隣合わせの毎日

食料調達もうまくいきませんでした。島でサツマイモの栽培を始めたのですが、虫が出てほぼ全滅してしまったのです。虫でもコウモリでも何でも食べました。空腹に耐えかねて、南洋ほうれん草と呼んでいた草を塩水で煮て食べたり。当然、腹を下します。

弱っているところへ下痢でさらに体力を消耗して、次々と仲間が死んでいった。屈強でごつかった荒くれ者たちが、最後は痩せ細り、仏さんのような顔で冷たくなっていく。たまらなかったですね。

私自身も命の危機はありました。

私の戦争体験|トラック島で見た地獄

 

祖父の話の中にも「サツマイモを作っていた話」はありました。

祖父が語ってくれた内容は

「どうやっても上手く育たなかった。現地の人が作ると大きな芋ができるから、現地の人に馬鹿にされたりしながら、何度も作り直して、やっと出来た芋は小指の太さの芋だった、どうして出来なかったのか・・」と話ながら首を傾け小指を見せます。

この話の内容からは、当時の悲惨さを想像できませんでした。私は、サツマイモを作っていた話として質問をしながらも軽い気持ちで聞いていたのです。

祖父が話す内容の背景の本当の悲惨さに考えも及ばなかった。

祖父が亡くなり5年。戦後76年。

体験談の「トラック島で見た地獄」を読んだ時には、涙が止まらなかった。疑う余地などなく、祖父の話を合致している真実なのです。

祖父もこの記事の方も、どれほどの想いをしたのだろうか。それを私が言葉になど出来るはずがない「計りしれない想い」に言葉など見つからず、ただただ胸が詰まる。

祖父から長年に渡り、聞いてきた戦争の話には、こんな真実があったことを知るには受け止めきれない思いで辛すぎます。

私のおじいちゃんの話なんです。おじいちゃん・・・

すぐ近くにいた おじいちゃん・・・

自分でこの記事を書き、言葉が見つからないでは何も伝わらないではないか、と思っても、言葉になりません。言葉が見つかりません。ただただ、涙が溢れて止まりません。

 

私は戦争の悲惨さを訴えたいわけではない、

戦争により一人の人間として体験した恐怖や苦しみを伝えたい

祖父が、色褪せることなく持ち続けた記憶は「トラウマ記憶」と言っていいのではないだろうか。

それに気がついた今、もう祖父はいない。

もし、祖父が生きている時にこれらを知ることが出来たなら、祖父の深い深い心の傷にそっとそっと寄り添ってあげたかった。

祖父は、それだけの「トラウマ記憶」を持ちながらも90年の人生を終えたのです。立派な人です。強い人だったと尊敬します。

私自身の「複雑性PTSD」については、祖父のように一生持ち続ける自信があると思いました。しかし「そんなもの一生持ち続けるのは嫌だ、自分は現代となり治療を受けているのだから何としても乗り越えてやる」と強く思えるのは祖父のおかげかもしれません。

戦争体験者とトラウマ(PTSD)

祖父のことに気がついてから、思い返してみると、戦争体験者の方の中には同じように長い年月を戦争体験者として過ごされている方を思い出しました。

海外で広島での被曝体験を語る活動をしてきた方が、「脳梗塞」から言語障害が残り、英語が話せなくなったことからリハビリを重ね、いつの日か英語を話せるようになってまた活動に戻りたいと言う内容でした。

その放送の中で、その方を海外活動を長年サポートしてきた外国人の方が「もう十分な活動をされてきたのだから、後は自分の人生を楽しんでほしい」そう伝えているシーンがありました。

この番組を見た当時は、後遺症を克服して活動に戻りたい思いは立派だなとか、人はどんな苦難があっても前に進むことが大切なんだな、と思って見ていました。

しかし、今はまた違った視点で考えることもできます。

この方も若い時に被曝した体験から、このままでは生涯を戦争と共に生きてしまうことになります。

 

同じように「2・2・6事件」の当事者の弟さんが、生涯に渡って「2・2・6事件」を語り活動していることを知りました。

この方たちが、即トラウマだなどと言いたい訳ではありません。

ただ、もしこの方たちも何処かで戦争体験から離れたとしたら、別の人生があったのではないかと思う時に切なさを感じてしまうのです。

貴重な体験談があるからこそ、私たちは知ることが出来ているのです。しかし、それに全てをかけてしまう人生には、日本が残した歴史の傷のように感じてしまうのは私だけでしょうか。


 

祖父は、お見舞いに行った帰りに必ず「無理してこなくていいぞ」と言いました。それが気遣いだとわかっていても、本当に来なくていい、と思われているようで切なかったです。

そんな祖父の最後の言葉が

「また 来てくれ」 でした。

初めて「また来てくれ」と言ってくれました。

でも、おじいちゃん、どこへ会いに行けばいいの?

 

一人で祖父の最後と向き合い、その後に知ることになった戦争体験の真実。

私には、切なすぎます。

だから、ここへそっと置いておきます。

 

今、平和な時代に生きています。

今と、これからを精一杯に生きましょう。

 

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